黒沢 清

(全3回シリーズ第1回)

高3の時・・・、
仲間が受験で映画を離れていく。
でも、俺はもっとのめり込んでやる。
(映画を)撮るぞ!
ヤケクソのように8ミリカメラを買いましたね。(笑)

Jjapan-interview.net K黒沢監督 )

J スイマセン。このホテル、ルームサービスがなくて、あわてて外で買ってきたんです・・・。(と、冷蔵庫からサンド イッチとアイスラテのパックを取り出す。)監督にこんなパックの食い物出 すのは申し訳ないんですけど。もう居直って出させてもらいます!(苦笑)
K いや、いいんですよ。日頃は僕も、こんなもんですから・・・。早速いただいていいですか?(と、ラテを飲みサンドイッチを頬張る)
J どうぞ、どうぞ!(かなり、ホッとしている)そうおっしゃって頂くとホッとします。さて、そろそろ始めたいと思いますが・・・。
K (二口目を頬張りながら)はい。
J 正直言いますと僕は映画は弱い方でして、難しいことは聞けませんし、(インター)ネットを見てみると、監督のことは映画専門の方がたくさん書いてらっしゃいますのでベタな質問中心に行きたいと思います。(笑)監督はいつから映画に目覚めたんですか?
K 目覚めたっていうか、(映画は)若者の趣味のポピュラーなものでしたから中学位ですかねえ。ごく普通に(映画を)楽しんでおりましたけど。当時ビデオもなにもありませんから・・・。やがて高校何年生かは忘れましたけど、多少大人びてくるとですね、あの・・・、単に娯楽だけでなく多少小難しい映画、本でもそうですけど。
J 高校位からやっぱり、そういう方面にいきますよね。
K 誰でもそうですよね。みんなは楽しい映画を見に行ってるんだけど、(自分は)ちょっと違う作品を・・・、(見に行く)。それで、よく判んないですけど(笑)判んないのを無理してですね「これは、こういう意味だ」とか言うのが楽しいって感じが高校時代からありましたね。
J 具体的に、その当時見た好きな映画のタイトルを、教えて下さい。
K えっとね、うーん・・・。
J 「あー、あれね」とは僕、言えないと思いますけど。(笑)
K 御覧になってないと思いますが有名な名前で言えば、あの・・・、昔も今もそうですけど、やっぱりハリウッド映画、アメリカ映画をよく見に行くわけです。けど、「これは、スゴイ!」なんて言ったのは、大島 渚(監督)! 名前はご存知だと思いますけど(笑)結構難しい映画なんですけど、大島渚の映画などは2本立てとか見にいきましたねえ。東京まで見に行ったこともありますよ。大阪、神戸ではやってないんで東京まで出てきて・・・。うーん、なに見たかな、まあフランス映画とかね。
J 高校の時に東京まで映画を見に行く!
K はい。見に行きました。
J それは、かなりのマニアなんじゃないですか?(笑)周りにいないでしょ?
K そうですね。あのー(苦笑)かなりのマニア・・・、だったのかなあ。ただ東京まで行ったのは、映画を見る目的だけではなかったんですけどね。じつは、うちは親戚が東京にいたもんですから、それもあって東京へはよく行ってたんです。だいたい親と一緒に行ってたんですけど、(映画を見に)友人と二人で行ったこともありましたね。
J そのフランス映画っていうのはゴダールですか?(j-in 注:監督のお友達に事前取材をしていました)
K ゴダールも見たかな、当時。
J ゴダールって、当時すでに古い映画だったんでしょ?
K うん。登場したのは1960年代前半ですから・・・、59年位にデビューした監督で、わっと世界的に人気が出たのが、1960年代前半ですね。僕らが見始めたのが70年代に入ってましたから、10年は遅れて・・・。でも人気は、その時もありましたよ。
J 今、10年前の映画って、なかなか人気にならないですよね、中途半端な古さで。20年前ならOKでしょうけど。(笑)でもゴダールは別格ですかね。
K まあ、そうですね。なんと言ってもですね、先程申しましたようにビデオがないですから・・・。とにかく映画に関する本でもなんでも読むと、題名が書いてあるわけですよ。これは何年度の作品で、こんな風に面白いとか。でもそんな記事を見たってしょうがない訳です。だって、どうやって見たらいいか判らないですからね。ずっと待っててもダメですし。10年前でも、3年前の映画だって、もう見れないんですよ。ハリウッド映画なんかですとテレビでやったりもするんですけど、ちょっと難しい映画になるとテレビでもやらない。するともうインターネットもないですから、(その映画を上映しているときに)東京へ行くしかない。映画見ようと思ったら。ですから今では考えられないほど労力を使ってでも、見たいと思った映画は見にいきましたね。ただ、そういう人は当時は結構、多かったと思いますよ。東京まで行ったかどうかは判らないけれど、ちょっと学校さぼって見に行くとかね。そういうのは普通でしたね。今も演劇はそうですけど、やってる所へやってる時間に行かないと見れない訳ですから。その為には他を犠牲にしてかまわないっていうのが、当時のごく普通の映画好きだったような気がしますけど。今思うとすごいことやったなと思いますけどね。でも当時はあまり特殊なことをやってるという意識はなかったですよね。
J それが、だいたい高校生位の話ですよね。その辺から、8ミリ(フィルム)カメラで撮り始めたんですか?
K そうですね。友達が持ってた8ミリを借りて、遊びで撮ったりもしましたが、どうしてもカメラが欲しくなって、高校3年生かな・・・、高3の後半ですねえ、自分で8ミリカメラを買いましたね。それでなんか得体の知れないものを撮りました。
J ダーティハリーがお好きで?
K あー、そうですね。(笑)
J ガンアクションものを撮られたって聞きましたけど。
K そういうのも撮りましたね。(笑)あの、ただそういうのもひっくるめて、なんか受験勉強がイヤだったんですね。
J あー、(笑)はい。
K それまで高1、高2と周りに映画好きが結構何人もいて、一緒に東京までではないにしても映画見に行くってことをやってたんですけど、1人、2人と戦線を離脱してですね「イヤー、もう家で勉強があるから」ってだんだん減っていくんですよ。で、僕はやっぱり、ヤでしたね。なんで勉強の為に映画を犠牲に・・・、っていうか、「自分の好きなことを犠牲にしなければいけないの?」という非常に素朴な気持ちがあったもんですから、「もう勉強なんかしたくない。みんな映画から離れていくのならそれでいい。でも自分はもっとのめり込む」と。ややヤケクソのような形でカメラ買いましたね。(笑)「撮るぞ!」っていう。(笑)
J (笑)なんかすごく・・・、悲壮とは言わないですけど、確固たる気持ちでカメラを買われたんですね(笑)
K (笑)まあーほら、若者にありがちな・・・。(笑)
J (笑)思い込みというか・・・、固い決意なんですね?
K 今、幸いこういうこと(映画監督)やってますから、それも良かったと思いますけど、こういう道、進んでなかったら「しまった!あの時人生誤ったんだ」って後悔した瞬間かもしれませんね。
J いやいや(笑)そんな・・・。
K (笑)自然に撮りたくなりましたね。ただ受け取るだけじゃ満足できなくて。

映像というのはつまらない。そこからスタートする。
J その段階で、画面の構図がどうの、カメラの切り変えしがどうの、とか考えてはったんですか?
K たぶん、そんな事を子供ながら考えてたと思いますよ。誰しもそうなんですけど、そんな事を考えて、自分で友達使って嬉々として撮るわけですよ。で、撮ってビデオと違ってすぐに見れないですから、一週間後位に現像から上がってきて見るわけですよね。これがひどいんですよ(笑)全然思ってた通りになってない。(笑) 「あんなに考えてやったのになんでこんなにつまらないの?自分が撮ったものは」っていうのが正直な実感でしたね。そこからです。作るということにのめり込んで行ったのは。「どうして出来ないんだろう?」そこでなんか「撮って楽しかったなあ」「わあ、面白いものできた!」って言ってたら、なんとなく熱は冷めてたかもしれませんが、「自分で作ったものは、なんでこんなにつまらないのか?」 「勉強が出来ないから映画に行ったのに映画も出来ないんだ」っていうね、(笑) 「なんで?」っていう気持ちが大きかったですね。それが大学以降、かなりマニアックに映画を作るという事にのめり込んで行ったきっかけですね。
J 具体的にどういう努力をしたら、自分の思う映像に多少なりとも近づいていくんでしょうか?
K それの正解が、ずばり判っていれば苦労はないんですが、未だに判らないんですけどね。(笑)そうですね、ひとつだけ言えるとしたら、よく「映画は映像だ」って言葉があるんですけど。「映像と映画は全然違うもんだ」って言葉もあって、両方とも使われてるんですけど。なんというかな、スチール写真の場合は僕はわかりません。スチールは違う原理が働いていると思いますが、映画の場合「基本的に映像というのはつまらない」
J はあ。
K 誰がどう撮っても、それはつまらないに決まっている。そこからスタートする。撮った映像が面白いと思い込むほうが間違いだ。したがってこの「つまらない映像を、なんとかして面白くしていく。それが映画を作るという行為だ」ってことがだんだん判ってきましたね。だから編集をするとか、音楽を入れるとか、ストーリーを付ける、俳優を選ぶ、全ての行為が重要になってくる。商業映画ですと90分とか2時間位、人を付き合わせる訳ですよね、お金取って。本来つまらないはずの映像に。それをどうやって、「面白い」と錯覚させていくのか。これが(映画を)作るということだってことが、徐々に判ってきました。ですから、ちょっとでも気を抜くと、とたんに映像の本来持っている「つまらなさ」が前面に出て来るんですよね。それで今でも時々、失敗するんです。
J 監督は学生時代に蓮實重彦さんって方の、教えを受けていらっしゃると聞いたんですけど、その方が「映画には映画独自の表現方法がある」というような趣旨の事をおっしゃられてるんですよね?
K 僕が大学に入ったときに偶然、映画の授業があったんです。当然、映画好きですからその授業を取ったんです。一般教養でしたけど。そこで教えていたのが、 蓮實重彦(さん)という当時、本来は東京大学の仏文の助教授だったんですけど。で、偶然、蓮實重彦(さん)と先生と生徒として出会って、それが運命を決定しましたね。後々、蓮實重彦(さん)は東京大学の仏文の先生ではあるんですが、映画評論家として一世を風靡するわけです。僕が出会ったときは全然無名だったんですけど、たぶん1980年代に日本のみならず世界(アメリカは除く、アジア・ヨーロッパ)の映画に決定的な影響を及ぼした映画評論家です。その人がそうなる前に出会っちゃったんですよ、僕が。それは・・・、大きかったですね。蓮實重彦(さん)の言ってることを一言で言えっていうのは、非常に難しいんですけど、たしかに「映画には映画独自の原理がある」ということも言ってますが、これは映画の歴史の話になるんですが、映画以前に「映像ってなに?」っていうことなんですけど、映像とはズバリ「切り取られた現実」なわけです。世界最初の映画ってのが1880何年かに作られてるんです。1分くらいの映画なんですけど。これが現実を切り取ってるんですね。工場の出口」っていって、工場の出口から人がざらざら出て来る所をただ撮ってる。四角いフレームで。「これが映像だ」ということなんですよ。ですから、さっき言いましたように「切り取られた現実」というのは、そのままじっと見ていても面白くないわけです。最初は「写真が動いてる!」って驚いた人もいたらしいですが、ものの1分です。1分以上もたない。そこから切り取られた現実を使って、どうやって1時間半とか2時間の作品にしていくか。なんで、そこで1時間半とか2時間の長さが求められたかというと、それが演劇の長さだからなんですけど。当時、(19世紀末〜20世紀初頭)舞台ですね。舞台というのは非常にお金が取れる。これは芸術的意図ではないんです。あくまで商業的意図で。何百人というお客さんがお金払って見に来て、これが1分だとお金取れないわけですよね。1分だったら今だと、せいぜい100円も出しゃいいとこで、千何百円取るっていったら、やっぱりある種の長さが必要である。ただ、5時間も6時間も人はじっとしてられない。そこから演劇はだいたい90分とか2時間とかになっているんですけど、これ位の時間だと人は満足も出来るし、我慢も出来る訳です。この時間を作るのに、映像をどう貼り合わせて、どうもって行ったら、お客さんが来る(作品になる)の?という所から今の映画に・・・、みんなが知っている映画というものに近づいていったんですよ。判ります?
J ・・・言葉の意味としては判ります。(冷汗)
K なんで、こんな変な話になったんだろう?(j-inが)蓮實重彦(さん)って言うから・・・、(笑)ま、っていうようなことから僕は学んだ訳です。だから最初に戻るんですけど物語も俳優も音楽も、みんな後でくっ付けられたものでね。映画を撮ってみるとよく判るんですけど、俳優ってのは別に架空の人ではなくて生身の現実にいる人間なわけですよ。それを「こいつ、どうやって格好よく見せればいいんだ」ってことで、メイクしたり、これはすでに舞台でやってますけど。「どっから撮ったら格好よくなるの?」 とか、俳優という人間としてはくだらない人かもしれない(笑)、つまらない・・・、その人がじっとして立ってたら面白くもなんともない俳優という現実をいかにして「かっこいいなあ」とか「美しいなあ」とか思わせるようにしていくか、それが映画な訳ですね。ということが大成功して、みるみる発展していったのがハリウッドなんです。未だにハリウッドはそうですし、日本でも未だにそうですね。基本は。で、そこからゴダールは「一回、原点に戻らない?つまんないかもしれないけど映画というのは、もともとは単なる切り取られた現実だよね」っていう、むしろ全く新しいものを提案したというより「一回くっ付けたものを剥ぎ取ってみよう」っていうことをした人なんですね。ですから原点はそこにある。だからなんとなく「カッコイイ俳優がいて、素晴らしい衣装と美術と面白いストーリーがあって、音楽があってというのが、映画だろ」とみんな思ってるんでしょうけど、本当の映画の姿というのは実はちょっと違っていて、「俳優とか、衣装とかセットとか音楽とかストーリーとかが、ないと映画が出来ない」と思ってたら、「いや、そうじゃない。カメラを持ったら、すぐに出来るんだよ」と。つまらないかもしれないけど。ほとんどの場合つまらないけども、現実を切り取って、それをどうにか繋ぎ合わせていけば、実は映画になるんだと。ストーリーも俳優も音楽も本当はいらないのかもしれない。だから別にハリウッドでなくても日本の商業映画でなくても、学生だって映画はできるかもしれない。カメラさえあれば。という所に戻したのがゴダールです。そこで即興とかね、「俳優使わないなら素人でどうするんだ、演技なんてできやしない、じゃ即興だ」と。今、テレビは散々そんなことやってますけど。全部、そこから来てるんですね。映画を一回もとの姿に戻して、アメリカ的な商業映画の世界から戻す、そしてもう一回作ってみる。ですから、8ミリカメラをやけくそで買った青年にとっては、こんなありがたい話はないわけですよ。(笑)「俺にも映画できるんだ。俳優なんて要らないんだ。ストーリーさえ要らないんだ」っていう。ただそこからまた話は戻りますが、そうやって撮ったものは大体つまらないんですよね。「どうやったらこれが面白くなるの」っていうのが未だに続いてますけどね。
J 「ブレアウィッチ」とか・・・。
K あー「ブレアウィッチ プロジェクト」ね。はいはい。
J 僕、見に行きましたけど。「ボロ儲けやないか!」と思いましたね。(笑)いやらしい言い方ですけど。(笑)
K あれは日本のテレビ番組なんかも同じ作りなんですよね。実はあれに出てる人は俳優の卵なんですけど、カメラ持たせて、どういう指示出したのかは知りませんけど,とにかく「どっかからどっかまで何日かかってやってこい」って言って、途中どっかにスタッフが隠れてて脅かし続けたという(笑)ドッキリカメラですよ、あれ。(笑)
J 逃げ惑うシーンなんか・・・。
K そう、全部そうです。
J そういう演出なんですか?
K ええ、彼らも俳優ですから「ヤラセ」と判りつつ「ギャーギャー」言って、しかも(自分で)撮ってるという、テレビの電波少年とか、あの手と一緒ですね。やり口がね。あれはあれで、ひとつの「見世物」だとは思いますけどね。すいません、いきなりのっけから難しい話しちゃって。

若い頃、全く貧しいとは思わなかったけど、
今、思えば極端に貧しかった。
J 大学生の時にディレクターズカンパニーに入られたんですか?
K それは卒業して何年か経ってからですね。そこに入ったのは。今まで申してきたように大学時代、8ミリカメラを回していた映画好きの若者だった訳ですけど、たまたまですね、大学4年生の時にある日本の商業映画の監督と知り合って、ほ ぼバイトに近い形で映画製作の現場に付いた訳ですよ。下っ端で。これが半年以 上かかったかなあ。映画一本撮るのに。で、終わって大学に戻ったんですが、5 年生になってまして。(笑)それで、もう同じ学年の人はだいたい就職してしまっ ていて、就職という機会を逸してしまったんですよ。「今更、就職活動もする気が しないなあ」って。まあ、映画の世界にチョロッとした足懸かりが出来ましたか ら。で、大学の方は幸い5年生で卒業はしたんですけど、8ミリ映画を撮りなが ら、一方でバイトみたいな形で映画撮影現場で働くという、今で言う「フリータ ー」ですか。就職できなかった人として数年過ごしましたね。
J その数年間は、ずっとそういう日常なんですか?
K そういう日常です。
J 現金収入というのは、映画の現場にアルバイトで携わるという形だけですか?それ以外の・・・、例えば居酒屋でバイトとかはなかったんですか?
K 僕はしませんでした。全く貧しいと実感したことはないんですが、今思えば、極端に貧しかったですね。ただ映画を見るお金をどうやって捻出するかが当時、一番苦労しました。でも封切りで見るのは難しかったんですが、二番館、三番館が結構安かったもんですから見るのは見れて。で、友達が8ミリ映画撮るっていったら手伝ったり、プロの撮影現場があるっていったら、呼ばれて行ったり。貧しかったですが気ままに過してました。それが数年あった後にディレクターズカンパニーが出来まして「お前も入れ」と。その時、僕は監督でもなんでもないんですけど。一介の・・・、その時は「助監督」という立場だったんですが。助監督もやってる単なる8ミリ好きの(笑)若者だった訳ですけど。その状態でディレクターズカンパニーに入る・・・、でも社員という風でもないですね、あれは契約(社員)。普通の会社員とは違います。年俸幾らという、これも非常に安いですけど。でも以前に比べれば「ああ、なんか生活が安定する」ということもあって、そこに入りました。入って一年後ですかね、初めて商業映画を撮ることになるんですけど。
J その助監督時代の作品が「太陽を盗んだ男」ですか?
K 「太陽を盗んだ男」は僕が大学4年生で、一番下っ端のバイトのような形でついた作品です。
J じゃ助監督とかじゃなくて現場に携わった作品なんですか?
K そうです。ただ監督と知り合ってましたから、現場に携わったのは一番下の「製作進行」っていう形ですが、脚本は一緒に書いてましたね。だから生意気な製作進行でしたけど。その後、助監督としては一番有名なのは「セーラー服と機関銃」ですかね。これは正式に助監督としてやりました。
J 「太陽を盗んだ男」は記憶に残ってますよ。
K あー、そうですか。
J 高校生位だったと思うんですけど、原爆の作り方の本買いましたから。(笑)
K そうですか。(笑)
J 高校生って、そういう飛び方しませんか?(笑)
K あーそうですね。(笑)
J 「マンハッタン核作戦」とか言ってね。(笑)
K 多分、覚えてないと思いますけど、あの作品の中で沢田研二がプルトニウムを盗んで、前半でテレビのニュースをやってるんですよ。で、「東海村からプルトニウムが盗まれました」ってアナウンサーが言ってる所を、沢田研二が見てるんですけど、「犯人は過激派の誰某・・・」沢田研二じゃないですよ。で、犯人の顔写真がバーンと出て、結構それがアップになるんですけど、それが僕なんです。(笑)
J オオー!(大受け!)そうなんですか!
K 僕の写真使って・・・。僕の顔がテレビ画面の中ですけど(スクリーン上で)アップになったんですよ。(笑)非常に若い、まだ学生の。
J ああー。(笑)
K だからどうした、ってことなんですけど。(笑)
J いえいえ!「あいつの顔がええ!」と思ったんじゃないですか?
K なんでか判りませんね。面白がって出されましたね。
J それで、徐々にキャリアを積んでいかれて、「セーラー服と機関銃」これが正式に助監督としてやられて。
K そうですね。
J で、次は日活の作品になるわけですか?いよいよ監督として。
K 商業映画を監督として初めて撮ったのは、日活ではなく「ピンク映画」っていうもので・・・。これは今もありますけど。昔「日活ロマンポルノ」というのがあったんですけど、それが制作費が1000万円位で、それより(ピンク映画は)さらに安くて300万円位で作るんですけど。(ピンク映画は)日活みたいに大きな会社じゃありません。今でいうとAVみたいなもんです。近いのは。フィルムで撮ってるんですけど、一般的な認識でいうとAVみたいなもんです。
J 配給はどこがするんですか?
K あのね、新東宝とかミリオンフィルムとか、多分よっぽど好きな人じゃないと見ない、だいたい3本立て位で。俳優もだいたい無名だし・・・、そういうのが、あるんですよ。それがデビュー作です。2本目が、もうちょい(製作費が)上がって、日活ロマンポルノになるんですけど。
J この辺の作品から、たくさんのHPやマスコミで紹介されてると思うんで、そちらを見ていただくことにしましょうか?
K そうですね。

(第1回終了)
第2回は映画製作の仕組みや、黒沢流の映画の撮り方、黒沢作品に多数出 演されている、役所広司さん、哀川翔さんのことについて等、黒沢ファン必見の内容です。

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