タロヲ(本名:細川 太郎)

(前編:幼少の頃から大学卒業まで)


自分が見えてるように描きたいんで
最初から立体に描こうとしてたんですよ

Jjapan-interview.net T細川太郎氏)

J 御出身は横浜ということで、いいですか?
T そうですね。生まれたのは(香川県)観音寺市ですけど、すぐに横浜に来ましたから。
J で、横浜に4歳までいらした・・・
T それから、東京に行ったり愛媛に行ったり・・・。それで中学1年から大阪です。それで大学卒業まで大阪にいて、現在ここ(東京)に至る訳です
J あっちこっち行かれてますけど、子供としては学校や友達が変わったりすると大変ですよね。寂しくはなかったですか?
T あの頃は逆でしたね。新しい所に行って新しい友達が出来るということの方が、面白いというか。ちょっと子供らしくない所があったんですよ。行った先々でリセットできるんですね。
J 結局、何回引越しされたんですか?
T 小学校の時は、4箇所です。幼稚園で2箇所。
J すごいですよね。(笑)
T 最後に行った学校では、いきなり生徒会長やらされたりしました。(笑) なんなんでしょうねえ・・・。目立ってたんかなあ・・・。
J 転校してきて、いきなり生徒会長なんてねえ。でも小学校の時の生徒会長なんていうのは勉強ができるか、運動ができるか、どっちかですよね?(笑)
T 僕は、特に運動で目立つと言うタイプでは無かったんですけど。
J じゃ勉強が思いっきりできたんや。(笑)
T いやあ、なんか発言とかが目立ってたんでしょうね。
J 僕は生徒会長だけは、なれなかったです。クラス委員まではやったんですけどね。そこまで頭良くなかったんですねえ。(笑)
T またうちの母親が、そういうのを喜ぶ人だったんですよ。その期待に応えようというのが大学生くらいまでありましたね。
J さて、横浜時代のお話から伺いたいんですが。
T 戸塚のアザリエ団地という所に住んでまして、近所に「ドクトルマンボウ記」の北杜夫さんが住んでるって親父が言ってました。あと「鳥が丘団地」という巨大な造成地区があったり「横浜ドリームランド」とか「子供の国」があって週末になると家族で出掛けたりしてましたね。
J 新興住宅地みたいな所だったんですか?
T 横浜っていう所は、海から山へと高低差があるとこですよね。その斜面にある住宅地ですね。そこでは親父が勤めていた会社の社宅のような所に住んでました。
J ということは、いわゆる横浜っていう雰囲気は薄い所だったんですかね?
T その辺はよく判りませんけど。ただ僕の人格形成において横浜に住んでいた4年間というのは、大きかったかも知れませんね。
J それは新興住宅地特有の、向こう三軒両隣的な所ではないことが、影響してるんですか?
T そうですね。僕が育った所は、近所付き合いはあるんですが村意識まではいかないし、親父もお袋もそんなに近所付き合いを得意としない人なんで。だからと言うとなんですけど僕自身も本当は人付き合いは苦手なんです。今でこそ、こうやって喋ってますけど、特に中学、高校の頃は限られた人としかコミュニケーションできませんでした。ですから社会人になって東京で色んな人と仕事をしていく中で鍛えられたということですかね。それと、やっぱり家内の影響が大きいと思います。実家が居酒屋さんの娘だから、お客さんとのコミュニケーションは、すごい上手です。サービス、気配りだったり、人を楽しませるというか。そういうところは、色んな意味で参考になってますよ。仕事にもね
J ああ、良いお話ですねえ。ところで子供時代、好きだった遊びは何ですか?
T 幼い頃は、とにかく自動車が好きでしたね。家の近所に「西友」っていうデパートがあったんですが、そこへお袋と買い物に行く度に2台づつくらい買ってもらってました。
だから100台、200台みたいな数になりましたよ。で、そのミニカーをケース・・・ケースって、すごい嬉しいんですよね。そのケースからミニカーを出して眺めて悦に入るというか・・・。(笑) で、今度は実際に走っている車を指差して「あれは、○○!」とか言い出して。子供の頃から割と記憶力は良い方だったみたいで、車に限らず電車の名前を言ったりして周りの人が驚くような子だったそうです。
J 車を動かす方が好きだったんですか? それともコレクションする方ですか?
T 絶対的にコレクションです。あの頃でしたら、ブルートレインカードっていうんでしょうか? ああいうのを買って名前を当てたりとか。逆にロボットものなんかには興味なかったですね。ガンダムとかあったでしょ。ああいうのより実際に存在する電車とか車、飛行機、船とか乗り物が好きでしたね。でも最も身近な自動車が、やっぱり一番好きでした。キャデラックとかワーゲンなんかを見ると、普段見ない車ですから「なんだ!? これは!」って感じで興奮してました。あの頃は車の絵ばっかり描いてましたよ。
J どんな車が、お気に入りだったんですか?
T やっぱ、キャデラックとかリンカーンですね。僕、ボンネットがドーンとデカいいわゆる「アメ車」(笑)が好きだったんですよ。
J ああ、そうですか。(笑)
T それで、これはよく他でも話すんですけど、子供の頃って車を描くとき真横から見て描くじゃないですか? 僕は幼い頃からどうやら自分が見えてるように描きたかったみたいで、最初から立体に描こうとしてたんですよ。でも描き方が分からないもんだから、自分が見えてるパーツをとりあえず全部描こうとするんですね。(笑) それで台形のフロントガラスがあってサイド(ウインドウ)も左右のタイヤも全部描いちゃうんです。(笑) だから、いつもなんかぺったんこな形になっちゃって、子供ながら「なんでだろう? おかしいなあ」と、いつも思ってました。で、ある日「これ(例えば左後輪)を描かなければ、どうなるんだろう」と考え付きまして、やってみたところ見事に立体に見えたんです!
それからと言うもの狂った様に立体を描き始めましたね。面白くて。自分が今こうしてデザインの仕事をしている原点は、そういうところだったのかなと思います。
J それが何歳のときですか?
T 4歳ですね。
J 4歳で立体のモノを描こうとした訳ですね。
T そうです。
J 早いですよね。
T そうですね。僕、大学で発達科学部っていう所だったんですけど、そこで児童心理学を勉強していたとき、子供の発達過程で「お絵かき」で立体的なモノの概念を把握して描くというのは8〜9歳くらいでの成長過程のひとコマと習いました。
J じゃあ、ミニカーを集めることから絵を描くことにシフトしていったんですか?
T 興味の度合いは同じくらいでした。ミニカーを集めることも、すごい楽しかったし、絵を描くことも最初は親が褒めてくれる所からスタートしたんでしょうけど、途中からは自分の満足の為というか・・・、自分の部屋に閉じこもって、ご飯も食べずに描いてました。やり始めたら最後までやり続けるような子だったですね。
J 集中力があるんですね。今もですか?
T 今も人に引かれる位(笑)ありますよ。たまに仕事を、ほったらかしにしてでも、やりたい事をやってしまうことがあります。(苦笑)
J 子供の頃、たくさん絵を描かれてたでしょ? それから中学までの、10年位は絵の方は描いてらしたんですか?
T 描いてましたよ。ただ漫画を見だしてからは、漫画ばっかり描いてましたね。
J 漫画を描くのが趣味だったって感じですか?
T そうですね。その頃は将来の事を漠然と・・・今みたいにウエブデザインなんて無かったですから「漫画家かな・・・」と思ってました。そしたら親父が「漫画家なんて勉強しなくても出来るんだから(やめとけ)」みたいなことで、よく喧嘩してましたね。でも、その頃流行ってた「キン肉マン」とか「北斗の拳」とかを描いて学校で友達に見せると騒いでくれて。(笑) で、調子に乗って落書き帳が埋まる勢いで描いて。いわゆるその頃の「絵が上手い」というのは模写が上手く出来るということなんですよ。小学校の写生なんて、だいたいそうですよね。
絵が独創的だから評価云々というより、きれいに対象物を再現できているか。
ということで評価されるから、僕としては、ナメてたんですよ。(笑) 「(美術なんて)ちょろいやん!」って。(笑) 実際、コンクールに出したら賞貰えるし。
県の絵画コンクールで奨励賞を連続で受賞したり、ポスターで「市長賞」を貰ったりとか。そんな感じでしたから、絵を描くことに関して天狗になってた所はありましたね。(苦笑)
J 小学時代は絵のコンテストで賞を取っていた。中学時代は部活でハンドボールや卓球とかをやってらして、息抜き程度に漫画を描いてたと・・・。(j-in 注:事前取材をしていました)
T そうです。中学時代は美術からは完全に離れてました。家でチョロチョロッと描く程度です。部活と勉強! みたいな感じですか。(苦笑) 僕の中では、あまり楽しい3年間ではなかったですね。(苦笑)
J とりあえず、高校受験と・・・
T というかね、やっぱ「きびしいなあ」と思ったのは、中学生の頃っていうのは、一番微妙な難しい時だと思うんですよね。イジメっていうか・・・、当時自分では、いじめられてるとは思ってなかったんですけど、今にして思えば、最初の方はイジメられてたのかな?と。明らかに他所の土地から来た田舎者って判る人間でしたから。また、大阪の子供達は言葉もキツイ。(笑) 登校拒否まではいかなかったですけど、自分なりに「やることだけやって、さっさと卒業したい」っていう中学3年間でしたね。
J 中学の頃っていうのは、色気付くときじゃないですか? そっちの方はどうだったんですか?(笑)
T そうですね。その頃、初めて服を買いに行きましたし、流行の髪型にしてみたり。けど、体が小さかったんで格好付かなかったですね。あと、例えば筆箱とかシャーペンとか下敷きのセレクトでネタにするとか。(笑)
J ああ、なるほど。(笑)
T 例えば、女の子なんかがそれを見て話しかけてくるじゃないですか。それで「あ、そういうキッカケもあるんだ」と思いましたね。僕には妹がいるんで、妹が買ってるようなモノの中で多少ボーイッシュなモノを買うとか。(笑) 当時、男でそういった文具にまで気を使うヤツっていないじゃないですか。その辺が女の子達には新鮮に映ったんでしょうね。ただ、勿論ですが、そんなことで付き合うとかいうことにはならなかったですけどね。あと、うちの親も厳しかったですね。女の子から電話がかかってくるだけで「誰なの?」みたいな感じで、常にかまってくるような人でしたから。(苦笑)

「この白いキャンバスの中では、自分が神様なんだから
自分が本当に描きたい絵を描きなさい」と。
ガツーンときましたね。
J タロヲさんが行かれていた高校は、美術指導が盛んだったんでしょう?
T そうですね。地元(大阪)の公立高校で、豊中高校というとこなんですけど。
そこが昔から美術に対しては熱心なところで・・・。OBには有名な彫刻科で新宮晋さんなどがいらっしゃいます。ただ、第一志望は別の高校(苦笑)。
J じゃ、たまたま入った高校が美術に熱心だったと。
T そうですね。中学時代は、さっき(j-in が)仰ったように、ハンドボールやったり、卓球やったり、水泳やったりしてたんですけど「これから高校の3年間、ピシッとやれることをしてみたいなあ」って思いだして、そこで自分の得意分野でもある美術をと、美術部を選んだんです。中学までの美術っていうのは、美術の授業の中で良い成績をとる為にやってたという感じで、本当に考えて絵を描くということを、やってきてなかったんですね。
J それで美術を始めた訳ですか?
T 高校が進学校だったということもあるんですが、中学までは、割と勉強が出来る方と思っていたんですが、その高校では成績なんて、はっきり言って後ろから数える方が早かったんですよね。(笑) そこで勝手に今まで保ってると思っていた自分のアイデンティティみたいなものが、ぶっ壊れるんですよ。「俺は人より何が勝ってるの?」みたいな。
J 皆さん、優秀な人ばっかりでしょうからねえ。
T 頑張っても、頑張ってもトップクラスへ食い込めない苛立ち? そりゃ、得意な教科なら上にいくんですけど苦手な教科は、もう自分でも恐ろしいくらい下にいっちゃうんですよ。100点満点で、20点30点はザラみたいな・・・。そんな経験は初めてでしたから。そうなって「自分がどういう所で勝負出来るのか考えた方が良いな」と思うようになって「それなら、やっぱ美術だろう」と。自分に嘘ついてもしゃあないですから。(笑)
J 将来の自分を考えてというか、今の自分のアイデンティティを再構築する為の決断ですね?
T そうです。結局、自分が勉強でサッパリだと言う理由で、その場に埋没してしまうという事が一番怖い訳ですよ。だったら自分が「その為に生きてるんだ!」と言えることを見つけようと。高校入学後の1年間でしたね。別に美術は選択教科ですから誰が美術やってようが、他のクラスメイトにしてみたら「関係ない」っていう世界でしたけど、自分の中では「(美術でダメだったら自分はお終い)っていう位の勢いだったんですよ。それ位、危機感感じてたんですかね。その頃は。
J そうですか。他の皆さんもそうだったんでしょうか?
T 滑り止めで入ったヤツもいますし、人によっては、それなりにエンジョイして余裕もって楽しんでいるヤツもたくさんいましたけど、僕は結構すぐにイッパイイッパイになっちゃうんで・・・。 でもそこで凄い先生に出会ったんですよ。それまで自分なりにリアルに描くってことに興味を持って描いてたのを、まず全否定される訳です。「見たものを綺麗に描けたところで、それは(自分が)カメラのような眼を持ち、マシンのような表現力があるということに対して自己満足しているだけにすぎない。それは絵を描く行為とは言えない」と言われたんです。「この白いキャンバスの中では、自分が神様なんだから自分が本当に描きたい絵を描きなさい」と。それにガツーンときましたね。それからの高校3年間、その先生から絵を描くことのテクニックよりも精神面的なことを、ずっと言われ続けました。「絵を描くとは、どういうことか」とか。とりあえず普通の絵の描き方をさせてくれませんでした。
バーナーを使ってキャンパスを焼いて、そこから出てきた模様を生かしながら描くとか、下地にペンキとかを塗りたくって色んな色が下絵になっている状態で線を描いていくとか。
J 本格的な美術指導のようですね?
T はい。お陰で僕のいた3年間でも大阪府下で良い成績を収めることが出来ました。僕自身も賞を取りましたし。その先生の指導のおかげか、そこで何かを得た人間は賞を取っていきましたね。高校2年の頃、僕と同級生の江川君という子と2人で、東京都美術館で「学展」といって、高校生の美術のちょっとした甲子園みたいなものがあるんですけど、そこで2人とも賞を取りました。奨励賞ともうひとつずつ。ちょっと名前を忘れちゃいましたけど。一校から1人が2枚出品して両方ずつ受賞するというケースは、なかなかないらしいんです。先生の指導が良かったんでしょうね。それと大阪自体が昔から美術教育に関しては他の都道府県と比較してもレベルが高くて、突出してたそうです。
J へえ!
T その学展は当然全国から応募があるんですけど、昔から8割位は大阪の学生が入賞してたので「大阪枠」と言って制限が特別に設けられる時期があったそうです。
J 大阪って、そんなに美術教育が凄いんですか?
T 全国的に見ても次元の違った美術教育が浸透してたんじゃないですかね。例えば大阪の中でも「高校展」っていうのがあるんです。あの頃は天王寺美術館(大阪市立美術館)で開催されてまして、大阪府下の公立高校が対象で、そこの美術部が出品した作品全部が展示出来るんですけど、高校の(美術の)ランクによって、6m校、5m校、4m校・・・と分かれるんです。何mっていうのは展示スペースのことで、6mが最大、1mが最小なんですよ。で、6m校は府下で毎年5校ほどしかないんですが僕の高校は、その内の1校でした。その6m校同士で合同合宿したり・・・。
J 合宿ですか!?(笑)
T 尾道(広島)に行って、30号っていう70cm×90cmのキャンバスを「1人で1日3枚描いて来い!」みたいな。
J 1人で1日3枚・・・・、ハァ〜ッ(苦笑)
T モロ体育会系です。それで朝から尾道の街中にキャンバス持って繰り出して、イーゼル立てて絵を描いて夜8時頃、宿に戻ってから、また夜中の2時位まで強烈な発表会になるんです。もう相手の高校と罵倒のし合いですよ。(笑) 僕、その頃もう部長でしたから、後輩の手前、自分の高校としての面子もありますし。負けてられない(笑) でも、その頃のやり合いというのが結構、今の仕事上でも生きてるんですよね。戦う気持ちでモノ作りをするとかね。
J それは、美術教育としてオーソドックスな教育手法なんですか?(笑)
T オーソドックスではないですよ。(笑) 大阪の特殊なコミュニティの中での手法だと思いますけど。それで(絵を)描くことが嫌いになる子も出てくるでしょうし。
J 罵倒って仰いますけど、ディベートっぽい感じじゃないんですか?(笑)
T ああ、ごめんなさい。(笑) 罵倒って言ったら、ちょっとおかしいですね。罵倒の勢いをもった批評?(笑) 勿論褒めることもしますよ。ただ、基本的に誉めあっても仕方が無い。お互い褒めあうばかりじゃだめで、「何を描きたくてそういう表現になってるのか?」とか、それに関しては容赦なくやりますね。そして、力のある高校の力のある絵を描く人間の言葉は、みんなシーンとして聞いてたり。
J 「力のある高校の力のある絵を描く人間の言葉」ってのは、やはり違うんですか?
T 言ってることは、実はそんなに力がなかったりするんですが、ただ、言わんとすることの視点だったりが、他では聞けないと言うか、やはり鋭いというか・・・
J その罵倒し合うっていう会話の内容が想像しにくいんですよ。技術論メインということは「ここの色をもっと濃くしたら深みが出るよ」とか「デッサンがおかしい!」とかっていう会話じゃないんですか?
T う?ん、あの、僕らが描いてる絵っていうのが、例えばピカソじゃないですけど「(一般の人が見て)これのどこが良い絵やねん!」っていうモノ(非具象絵画)ばっかりなんです。そして、その頃の僕らの基準はただひとつ。「いかに強い絵か?」なんですよ。例えば、お客さんがその絵の前を歩いているとして、パッと眼に入ってくる。絵はなんかよく判らないけれども、眼には焼き付いてしまうじゃないとダメなんですよ。上手いけど印象に残らない。では話にならないんです。ルネッサンス期の風景画を描いたってしょうがない。それが当時の僕らの基準でした。強い絵と言っても強い色を使えば出来る訳じゃありません。音楽でもそうだと思いますが、描いている人が、それをどう解釈してどう描いているのかが絵に出るんです。それが、はっきり判る絵が「強い絵」と言っていたんです。だから、逆に未完成の絵であっても、描こうとすることの意図が判って、且つ面白い表現だったりすると「これは良いよね」と言う批評が展開することは多かったです。外から見ると「なんでやねん?」っていう風景でしょうけど。(笑) 今から思えば、若くしてクリエイティブの根本になる部分を言い合ってたんですね。
J 言わんとしていることは判ります。(苦笑)
T と、言っても高校生が話してることですから、今から考えると青っちょろいこと言ってたと思うんですがね。でも自分達が、3日も4日も合宿して汗掻きながら
30号のキャンバスに向かっているときの姿勢っていうか、その体験自体が重要だったと思いますね。また、一生でそんな体験もありませんから。(苦笑)
J タロヲさん自身は、その時、どんなテーマで描いたんですか? って言うのは、自分の考えるテーマを具現化する為に対象物を選べるなら、今までの、お話は理解できるんですが「さあ、尾道に着きました。さあ、描きましょう」という流れであるなら、自分のテーマがそこにはない。ということも有り得るんじゃないかな? と思うんですが?
T 尾道という所は、御存知のように狭いエリアに海があり、山があり、街がありと色んな要素が凝縮された街です。そこに行って、人によっては当然見える風景をそのまま描いたりします。でも中には、階段なら階段ばっかり描いたり、そこの山並みが気になる人は、その山並みを強調して描いたりする訳で、その着目点とか表現の仕方に個人個人のテーマが反映されるんですよね。テーマが無ければ自分で見つける。(笑)
J あ、なるほど! 絵になる要素が沢山あるところへ行って、各人に(描く対象物の)セレクトは委ねる、ということですか。と言うことは、絵にタイトルは付けるんでしょうね?
T タイトルは付けないとダメです。
J そうですよね。批評のしどころが判らないですもんね。
T 「自分が描きたいテーマ」っていうことに関して補足すると、モノを描く視点というかコンセプトの立て方が重要なんですね。人が見ない視点でモノを見て、それを自分なりにどう表現するか。これが重要で難しい訳です。それを常に考えながら描かなきゃダメなんですよ。自分の視点で捕らえたモノに合った表現で描く・・・、線だけで描いてみたり、例えばピカソのキュビズムを意識して描いてみたり・・・、だから美術部で絵を描いていると、どんどんネタが無くなってくる。(苦笑)
J そうなんですか。
T 例えば、傘立てに立てている傘を見て、何気なくそれをスケッチしたら先生が「その絵を一度全部バラバラにしてみなさい」って言うんですよ。で、それを言われる通りハサミでチョキチョキ切り終わったら「それを再構成してみいや」って言われて。「なんかオモロイ画面が出来てると思わんか?」「あ〜、確かに面白いですね」「そこから新たに描いてみたら面白いぞ」って・・・。普通なら考えもつかない曲線が出てきたりしてるんです。パズルを分解してゴチャゴチャにしたような状態なんですけど。ブラックっていう画家も、そんなやり方をしてるんですよね。再分割構成っていう手法なんです。
J ブラック?
T ピカソと、ほぼ同時期に活躍した方で、絵を見たら判ると思いますよ。普通にある静物画をグジャグジャにして、アルファベットをちょっと入れたりしててカッコイイんですよ。
J 顧問の先生は、デザイン志向の方だったんですか?
T いいえ。元々は日本画専攻の方です。だから僕らが描いていたのは油絵でしたけど、技術面では日本画の手法も教えられました。そして授業では文字を扱ったデザインも教わりました。当時、油(絵)の中でも僕らがやっていたのは「薄溶ぎ」といって、いわゆる油絵の様にベットリ塗るんじゃなく、油絵の具を溶剤で溶いで薄く塗っていく手法です。そこで大切なのが薄く塗るところとガツーンと強く塗るところのメリハリなんですね。それは色の濃淡だけではなくタッチの加減も含まれる話なんですが。先生には、そこをよく注意されました。「抜くところと、入れるところに注意しろ」って。僕の場合、描きたくなると画面全体に集中してゴテゴテと描くんですが、それでは良くないんですよ。常に100%の力で描写が施された画面と言うのは見る側にとってもポイントが伝わらない。絵に限らず作品というものは、見せたいところと、抜くところの落差があるものの方が面白い。抜く所があるからこそ見せたい所が強調される。そういうことを教わりました。そのバランス感覚は今になってようやく判ってきましたね。
J 高校3年間、美術に打ち込んでどうでしたか? スタイルの確立は出来ましたか?
T ウ〜ン・・・、「油絵はもういいかなあ」と思いました。高校生活最後に描いた絵が結局一番良い賞を取れたんですけど、その絵でスタイルの確立が成されたとは思わなかったですし。その絵を描いたから次の課題が見つかるって感じですから。ただ、その絵で「油(絵)は、もう一区切りしようかなあ」と思いました。もう大学(入試)のことも考えなきゃいかんし、大学卒業したら仕事もしなきゃいけない訳だから、賞を取ろうがなにをしようが油(絵)では食っていけないなと。
J 「画家じゃないな 」と?
T 先生からも「お前はデザイナータイプ」「お前は、面白いものは作れない」って、ズバッと言われて、その時は結構ショックでした。(苦笑)
「細川は東山魁夷タイプだ」と。東山魁夷は、彼曰く、美しく繊細な絵を描くのですが、タイプとしては100点満点で80〜90点と言った優等生的な絵を描く画家なんだそうです。
僕としては、面白い絵にしようと色々実験的なこともしてるんですが、先生から見れば、無理に実験的なことをしているにすぎず、内面から出てきている面白いモノではないと。それは、絵をやっていた当時の自分には確かにキツイ言葉でしたが、同時に早いうちから指摘してもらえたことが、後に僕の方向性をふらつかせなかったと言う意味では「よく言ってくれたな」と、感謝してますね。
J あ〜、なるほど。厳しいですねえ・・・。一応、読者の方の為に、画家とデザイナーの違いを説明して頂きたいんですが。
T 今言ったデザイナーっていうのは、職業デザイナーに限った意味での話に近いです。言うまでも無くクライアントから発注があって、その意向に沿った制作物に仕上げる仕事をする人ですよね。
要はニーズがあってそれに対して逆算的に仕上げる能力は同年代の中でも他者に比べてあったと言うことを彼は僕に伝えてくれたんだと思います。
画家は芸術家ですから当然、自分の意思を作品に大いに反映させなきゃいけない存在ですよね。僕のひとつ下に、石塚桜子っていう当時から凄い絵画の才能を持った子がいるんです。彼女は後に東京造形大学に入学しまして、大学の先生からも「お前は、絵を描いていけ。お前は描かなきゃいかん」って言われてたそうですけど。
J その方は、今はプロとしてやられてるんですか?
T もう、東京でも個展を開いたりしていて名前も(世の中に)出て、最近では毎年、上野の美術館で開催される駒展にも出品され、彼女は今後も画家として大きな舞台で活躍してくれると思いますよ。

「こ・これは何や〜!」って、もの凄い衝撃でした!
J 話を先に進めます。そして大学進学となるんですよね?
T はい。そして「じゃあ、どこの大学に入るか」ってことになるんですけど、高校時代勉強もそんなにしないで絵ばっかり描いてた訳ですから、デザイン系の大学に行くのか、親の意向もあったので将来、普通の企業に就職することを踏まえて普通の大学に行くのか・・・、それが当時葛藤でしたね。私学も色々受けましたよ。結果、神戸大学に入ることができたんですが、「発達科学部」といって元教育学部で美術教員を養成する学部で、そこだけ思い出受験のつもりが、受かってしまいました。(笑)
J アート系の大学は受験しなかったんですか?
T そりぁ、東京芸大に小さい頃から行きたかったんですけど、あそこに行くには、凄まじいデッサン力と油(絵)の確かな技術力、それに加えて高い学力も必要で・・・。また、僕の場合は高校時代にはデッサンさせてもらえなかったですし。(笑) 「石膏デッサンなんてものは、そんなことしなくてもいい。ということを判る為にするもんだ!」って先生に言われてましたから。勿論それは深い意味、含蓄があってのことなんでしょうけど。
J 先生は本当の芸術を教えたかったんでしょうね。
T 他人と同じようなことをするな。せっかく美術をやってるんだから、その時間をもっと絵を描くこと自体を考えることに費やせってことだと思います。面白い先生でしたね。
J で、神戸大学発達科学部に進学されたと。発達科学部って、さっき元教育学部って仰ってましたね?
T もともと神戸大学の教育学部っていうのは、関西周辺で教員を目指そうとする人にとっては有名なところで、その教育学部の中でも音楽、美術、体育の教員を養成する学部があったんですが、僕らが入学した年に、その学部が廃止になったんですよ。っていうのが教育学部を卒業しても教員になれる人が少ないってことで、人間が発達していくことに関して、必要な学問(農学、法学、理学、文学 etc・・・)を総合的に学ぶ学部としてリニュアルされたんですね。その中で僕らは「発達科学部人間行動表現学科造形表現論コース」っていうんですけど、平たく言うと美術教員養成コースの延長上みたいなところに入った訳です。
J 大学生活は、どうでしたか?
T 教育学部時代は教員免許取得が必須だったんですが発達科学部になってからは選択になったんです。僕は教職には、それほど関心が無かったので、取り敢えず美術のことを浅く広く勉強できれば良いかなあと。大学の4年間で将来の進路を決めようという気持ちでいました。油絵は高校時代程は描かなくはなっていたんですが、キャンバスを大学に持って行って自主制作したりして。平凡な大学生活でしたね。バイトに明け暮れてね。大学でガツーンとなんかやったと言う記憶は無いですね。逆にその頃はバイトしてスキューバの免許をとって、あちこち行ったりして、物を創るということから離れてましたね。色んなバイトをして色んな体験をすることに力を注いでました。
J サークルとか部活には入らなかったんですか?
T 入りませんでした。学校の近所に下宿していれば違ったのかもしれませんが、うちは自宅から通わなければならなかったのとバイトで貯めたお金で何か新たなことがしたかった。(笑)
J お家から、1時間半くらいですか?
T ええ。でも在学中に阪神大震災が起こって、東灘に住んでいた友達が何人か亡くなったんで・・・。しかも可哀想なことに最近建ったオートロックが付いてるような良いマンションは残って(家賃が)安い所に住んでいたヤツが、みんな、やられたんです。僕も親が自宅から通えと言っていたので無理に一人暮らしをしていたら、そんなに良いところに住めてなかったでしょうから、やられてた可能性が大きかったでしょうね・・・。
J あの震災は色んな人の人生に色んな影響を与えてますよねえ・・・。
T そうですね。
J 話を続けましょう。コンピュータ(MAC)とは、どうやって出会ったんでしょう?
T はい。大学3年のときに先程言った高校時代の友人の江川君に「細川君、MACやらないの?」みたいなことを言われたんです。彼はコンピュータが、まだ8色か16色しか表現できない頃からCG(コンピュータグラフィック)をやってたんですよ。彼の家に行くと、その装備が凄いんです。もうパソコンがあって、スキャナーはある、プリンターはあるなんてこと・・・。
J あの時代にねえ。
T もう、「ここは会社か!」みたいな。で、「ちょっと好きな写真持って来て」って言われて、持って行ったらスキャナーに取り込んで、その写真をいじってるんですよ! もう、着色は出来るし。
J あの時代に、そこまでやる人は少なかったでしょうねえ。
T 「こ・これは何や〜!」って、もの凄い衝撃でした! で、彼に「これからは、こういうグラフィックの時代が来るから、細川君もやってみたら」って言われて、こっちもバイトやってるから、勢いで(MACを)買って。装備も一式揃えて30万程でしたかね。彼には今も、とても大きな影響を受けていますね・・・。それからはバイトもしながらグラフィック製作をやり始めました。あの頃は、まだそんなにやってる人が少なかったんで、チラシとかパパッと作ってあげると、みんなから重宝がられるんですよ。(笑) その頃から正式な仕事ということじゃないですけど、何か作ったら商品を貰えるみたいなことで、仕事っぽい感じでやってたんですね。
J それで大学を卒業する訳ですけど、就職活動がありますよね? その段階では具体的に、どういう仕事に就こうと考えてたんですか?
T その頃は、親が「企業だ」「企業だ」みたいなことをグチャグチャ言ってたんで、(苦笑) ぶっちゃけ、自分が働いてお金になるところだったら、どこでもいいんだろうな。と思いつつ、どうせお金貰うんだったら自分がやりたいことをしながら、お金を貰いたいなっていうのもあって。また大学入試のときと同じ葛藤がありましたね。だって大学の4年間は美術のことを、チョロっとかじるように勉強しましたけど、それが活きるような就職口があるのかっていったら、絶対ないんですよ。だから、とりあえず資料請求ハガキを手当たり次第に出してました。そして僕の場合は、卒業論文が広告のことをテーマにしてたんですよ。卒業が95年でしたので「90年代の広告表現を見る」みたいな。卒業の段階では90年代はまだ終わってないんで結論は出ないんですけど、自分なりに広告を調べて、これからの広告表現は、こんなのが来るんじゃないか。みたいな内容の論文でした。その延長で最初は広告代理店に行ければいいなと思ってましたね。それでD通、H報堂を受けたり、カバン屋さんを受けたりしました。

(前編終了)
次回は、いよいよタロヲ氏の代表作とも言うべき「軍艦島 ver 3.0」驚愕の!!(笑) 制作秘話を始め、今や幻(?)の、同作ver 1.0 、ver 2.0 の、お話や、ウエブデザイナーとしての想いなどを語って頂きます。お楽しみに!!

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