ヤノベ ケンジ

(Intervew)

SF・仮面ヒーローの世界を
ブレイクスルーし、
自由なるフィールド、美術の世界へ

Jjapan-interview.net Yヤノベケンジ氏)

J 迷惑に思われると思うんですが、僕はヤノベさんにある種、自分と同じ匂いを感じるんです。興味の方向が、似ているような気がして。(笑) この日を楽しみにしていました。早速ですが いつ頃から、いわゆるモノ作りを始められたんでしょうか?
Y 単純に幼稚園の頃から、SF映画やテレビに影響されて仮面ライダーとかのヒーローのマスク、あるいは怪獣のマスクとかを張りぼてで作って被ってみたりしてたんですよ。そこでモノを作る喜びや、それを被って自分が変化する喜びを楽しんでましたね。また、それを他人が見て、そこから生まれるコミュニケーションを楽しんでいたということもあります。
J その頃、ヤノベさんを語る時、欠かすことの出来ないエピソードになっている、「万博終了後の跡地で遊ぶ」という体験をされた訳ですよね?
Y そうです。すでに万博は終わっていたんで、パビリオンは解体されたり、そのまま放置されたりしてたんですけど、僕らにはある意味、非日常的な空間で友達同士「探検ごっこ」をしたりとかできる格好の遊び場でしたね。
J 最近、自分が通ってた幼稚園のグランドを見たんですけど、めっちゃ狭いんですよね。当時は広く感じたのに。でも万博跡地って今見ても広いでしょ? あそこにパビリオンとかが転がってたら大人でも、ちょっと興奮しますよね。(笑) で、そのヒーローのマスクや怪獣のマスクは、幼稚園の頃からずっと作り続けてたんですか?
Y うん。(張りぼても)被ってたし、あとゴジラとかのフィギュアやモデルアニメーション用といって(体の)中に針金を入れて動くようにするモデルを作って。フィルムは撮らなかったんですけど、それを動かして頭の中で空想して楽しむということをやりましたね。で、最初はゴジラ対ガメラとか。(笑) から始まって、どんどん妄想を膨らましていった訳です。これですよ。(と言いながら仮面ライダーの着ぐるみを着ている写真が掲載された、美術手帖の記事を指し示す)
J おお!(笑)なるほど・・・。これは中学、高校生位ですか? これは僕の回りにはいなかったタイプですね。(笑)
Y うん。
J ここまで、される方は・・・大体、プラモデル方面に行きますよね。
Y 僕はプラモデルも作ったけど、苦手・・・苦手なんですよね。大体、関心があるのは「等身大」のモノなんですよ。結局、考えたら僕のやってることは、今も昔も基本的には変わってないんですよね。
J そうですか。(笑) でも(先程の記事を見ながら)率直に言わせて頂くと・・・、変わってますよね。(笑)
Y 僕としては、そんなに変わってるとは思いませんよ。(笑)
J 勿論そうでしょうけど。すいません。あのう・・・聞きにくいんですけど、お父さん、お母さんなんて『あなた、もう高校生でしょ?』とか言いませんか?
Y そりゃ、言いますよ。怪獣映画とかヒーロー物のテレビとか見てたら、言われますよね。
J 男が中学生位で色気付いてきたら、当時でしたらなんでしょう、「傷だらけの天使」とか、「太陽にほえろ!」とか見ませんかね?
Y そりゃ見ますよ、もちろん。松田優作の物マネとかしてましたよ。(笑) 44マグナムも持ってましたよ。(笑) (j-in注:JがGun好きであることを、取材中に話した為、配慮して頂きました)
J あ、ありがとうございます!それは、それで・・・、あ〜、なんと言いますか芸風広いですよね。(笑)
Y 「月刊Gun」とかも買ってましたよ。(笑) オートマグとか作りましたよ。ドーベルマン刑事とか見てましたからね。(笑)
J あ、そうですか!(笑)
Y モデルガンも規制で、色々変化しましたよね。金属(ダイキャスト)からプラッチックになったりしてね。
J そうですね。(笑) あ〜なるほどねえ・・・。あ〜そうか・・・う〜ん・・・・。
Y 何を途惑ってはるんですか?(笑)
J (笑)いや、判りやす過ぎるというのも、やりにくいんですよ。(苦笑) 質問が出なくなるんですよね。(笑)
Y そうなんですよ。あんまり説明する必要はないんですよ。(笑)
J そ、そうですよね。話、終わっちゃいますよ・・・。(苦笑)
Y ゥハハハハ!(爆笑)(j-in 注:j-in のしどろもどろぶりに笑っていらっしゃいます)
J SF映画に影響を受けられたって所を、もう少し伺いたいんですが。ちなみに僕は「ブレードランナー」好きだったりするんですけど。
Y (笑)僕がちょうど、小学から中学に上がるとき「スターウォーズ」が日本で公開さ れて。それをきっかけとしてSF映画ブームが大きな流れとして出現して、それに 影響を受けたというのはありますね。勿論「ブレードランナー」や「未来世紀ブラ ジル」とかも大好きでしたね。
J SF、お好きだったんですね。
Y SF好きというか、昔から僕は想像の世界に没入する時があって、想像力を広げられる場として、SFというモノの中で自分の妄想を広げる作業をしていた。ということだと思います。で、やっぱり映画を作ることに、すごく興味を持っていた時期があったんです。でも映画は集団で作らなければならない。あるいは、興行収入等を考えて、お金のことにぶつかりながらでないと作ることが難しいだろうなとか。当時、日本映画はハリウッド映画と比べて色々な点で不自由な印象がありましたから。そんなことで、その時は映画に進むことは止めました。結局、一番大きな理由は、僕が集団でモノを作っていくタイプじゃない。ということに尽きましたけどね。それで美術の世界に行こうと決めたんです。自分自身の世界観を作るには美術というすごく自由なフィールドが適していると。何をやってもいいんだと。そういうフィールドが美術にはあるんじゃないかと。興行収入とか映画界全体の仕組みとかの制約に関係なく、自由な表現をできる場所が美術にはあるんじゃないか。そう思ったからなんです。
J 中学生の頃から、そんなことまで考えてらしたんですか?
Y 中学・高校のときは、SF映画に傾倒していたんですが、その頃は特撮映画全盛期で、そういう映画は日本では完全にハリウッド映画に負けてました。ハリウッドの亜流のようなモノしか撮れてなかったと思います。制作費のかけかたとか、技術的なことも、かなり遅れをとっていたんじゃないでしょうか。そんな事で、さっき言った自分の適性なんかも考え合わせて、自分が主導権を持って全ての世界を構築していくことの出来る、「美術」というフィールドに、自分の居場所を見出そうと考えたんですね。実際、当時は特撮の小道具を作るとかいう進路もあったんですけどね。(笑)
J そこまで考えていたという事は、完全にプロの芸術家になろうと思ってた訳ですね?
Y プロの芸術家という職業的な認識も一般的な部分では、あったと思います。と、同時に僕自身が「手でモノを造って行く」という工作的な要素を昔から好んでいて、それが自分の表現手段にぴったりだと思ってたから、そこで自分の可能性を広げる、そして自分の美意識を掘り下げるという行為をしてみたいと思ったんでしょうね。
J で、いよいよ京都芸大に入学される・・・。
Y 美術学部の彫刻課に在籍してました。それはモノを立体的に作るということに興味があったからなんですが。で、授業で作品を作ることになって、僕は自分の興味があるモノしか作れないから、いわゆる抽象的な彫刻とか造形物ではなくて具体的な、怪獣っぽいモノを作ろうとしてたんですよね。そしたら教授からは「これは怪獣じゃないのか? こういうのは美術じゃないんじゃないか」って言われるんです。僕はやっぱり、その中に自分を引きつける、何か・・・、美的な核みたいなモノがあると信じて、それを作ってる訳で。でも教授側は、そのようなモノは美術文脈の中には無いと思ってる。そこで、まずひとつ衝突がある訳です。僕自身は、自分の心を動かすモノだから、絶対何かがあるだろうと。それを抽出しようとしてモノ作りをしてただけなんですけど。
J 決められた課題というモノがあって、全員がそれを作るというやり方が美術教育にはあると、聞いたんですが?
Y 基礎としては、ありますよ。
J あ、基礎ではね。先に進んでいくと自由に・・・
Y 自由と言っても結局、環境とか教授等の思想の影響を受ける訳ですよ。その上で、自分の中にあるものを発見できるかどうか、自由にやれるかどうかが、大きなハードルとなってくる訳です。今でこそ、こういうモノが(と、美術手帖に載っている、村上隆氏のフィギュアの写真を示す)アメリカでは、6000万円位で落札されてる訳ですが、僕がデビューした頃は全くこういう状況ではなかったです。そこから奈良美智君とか村上隆君とかも頑張って・・・、その中のひとつとして僕も、こうした活動を始めて、やがて美術の潮流が変わってきて、こういうモノが美術の標準として、オークションで落札されるというような状況が、十数年たった今、ようやく出来上がったんです。これはある意味、僕が美術の中に自分の居場所を求め続けていった結果とも言える訳ですよ。
J 一般の人達から見たら、自分達が学校で習ってきた美術ではない、「あ、これはマニアの世界だ」と思っていたモノが、(笑) ある日突然、美術として認められていることに驚いている。というのが実感だと思うんですよ。でも、こうしてお話を伺ってみるとここまでの間、すごく御努力された結果だったんだなと。
Y 努力じゃないんです。自分が居やすい環境を作ってきたということですね。自分が自由になれる場所を作っただけで、別に難しいことをした訳じゃないんですよ。(笑)

未来の廃墟への時間旅行の果てに見たもの・・・、それは「現実」
J 大学院を終了されて、ドイツへ行かれたんですよね?
Y はい。大学院在学中に短期留学でイギリスに行って、院を卒業して2年後にドイツに行ったんです。
J 留学されるまでに海外経験は、あったんですか?
Y いえ、(留学が)初めてですよ。
J 海外へ具体的には、どんな勉強をしに行かれたんですか?
Y 京都芸大と、英国ロイヤルカレッジ・オブ・アートとの短期留学制度で3ヶ月程、行っただけで。だから留学というより旅行に近い滞在でしたね。ただ、僕としては色々刺激を受けて、そこから大きく作品が変化しましたけどね。
J どういう風に、変わりましたか?
Y 作風も変わりましたし・・・、ありきたりの話ですが海外へ出ることによって、遠くから日本を見つめたり、自分を客観的に見つめたり出来ました。だから海外を見て吸収するというよりも、自分自身を見直す機会を得たということです。その結果生まれた作品が「タンキングマシーン」です。生理的食塩水の中に入って、瞑想する。自分自身の中にある深層意識を見つめ直す。という瞑想装置なんですが。そういった体験型の作品を作りました。
J 当然、実際に体験されたと思うんですけど、どうでしたか? 上手く瞑想できましたか?
Y できましたよ。
J あれは中で、プカッと浮いて真っ暗の中で瞑想するんですよね?
Y 完全には浮きませんけど、まあ、浮きますね。
J 90年前後に、1回流行りましたよねえ? 商売にもなって。
Y 流行ましたねえ。「サマディ・タンク」とか「アイソレーションタンク」とか言って、実際にありましたね。
J 僕は、六本木で「シンクロ・エナジャイザ」というのを、やりましたけど。
Y はい、はい、ちょうどそういう時期でしたよね。90年代初頭というのは。
J 80年代のサブカルチャーが色んな形を成してきた時期だと思うんですよ。悪い方で言うと88年に「M事件(宮崎勤連続幼女誘拐殺人事件)」が起き、89年から所謂「オウム事件」が始まります。同時期に芸術面においては、ヤノベさんを初めとする新しい人達によるムーブメントが起きて。「ネオポップ」って言うんですか? 「レントゲン藝術研究所」がオープンしたのも、この時期ですよね。
Y ええ。あの頃は今に繋がる、色々なことが起こった時期ですね。
J タンキングマシーン制作の動機は、直接的にはイギリス留学がきっかけなんでしょうけど、時代背景として、今言ったようなことがあるんだろうなあと思いまして。
Y それもあります。その上でさっきも言いましたが、自我を確立する為には自分自身の問題点を見直さなければならないという必要性。また自分が何者かに変わることによって変容する精神の面白さに対する興味。これは遡ればヒーローのコスチュームを装着していた自分とも繋がるんですけどね。また彫刻作品というのは、とても客観化されたもので、作品と自分という距離があるじゃないですか? だから自分と作品がリンクする、細胞レベルまで一体化する生理的食塩水という体液と同調するような液体の中で、作品と細胞レベルまで一体化したいとか、色んな意味が集約されているのが、タンキングマシーンなんですよ。
J そこまで当時から考えられてたんですか?
Y そうですね。だからタンキングマシーンを作ろうと思った瞬間に精神が高揚して、そのアイデアに興奮しました。それを作って他人に見せるんじゃなくて、体験することによって自分自身が変わるんじゃないかという期待感がありましたね。
J 必要性があったから作ったと。
Y そうですね。
J それに、ヤノベさんの美意識が付加していったということですか。
Y 身体的な形とか卵的な形を持っていったりとか。あれも全部、鉄板を溶接して作ったんですよ。
J 下世話な話なんですけどタンキングマシーンに関わらず、ヤノベさんの作品は大きいし、機能があるし、お金がかかるでしょう? 作る場所から機材からなにから・・・。
Y そうですね。勿論、日本に帰ってきてから作ったんですが、京都芸大というのは環境のいい大学で、設備も巨大なスタジオもあって、いろんなモノを作れる場所と環境がありましたから、そういう意味では幸運だったと思います。金属加工とか石彫とか木彫、樹脂等、色んなモノを加工できる工房があったんです。だから極端な話、戦車くらいなら作れる設備があるんですよね。(笑) そういう環境から出来た作品とも言えますね。
J タンキングマシーンには設計図はあるんですか?
Y 設計図は無いですよ。
J え? 無いんですか。(笑) じゃ、イメージがあって、あとはフリーハンド・・・
Y 図面は無いんですけど、自分の身体に合わせて。例えばタンキングマシーンならアイソレーションタンクですから身体感覚の剥奪ですよね。中に入った時に、体のどこにも内壁が触れてはいけないとかいう条件があります。そういう場合、中に実際入って確認してから壁を広げたりとかする訳です。工作少年が工作するような形で作っていきます。
J 現物の資料を探してきて,参考にするでもなく・・・
Y ないですね。
J ふ〜ん、そうですか・・・
Y ええ。(笑) 単に隔離タンクでいいなら、風呂みたいなモノでもできるかもしれませんが、それだけじゃないって事です。より気持的に深く自分と同化させる為に、卵型にしたりとか母体をイメージさせた人型にしたりする訳で。後は僕の美意識を取り入れて。という事です。僕の作品作りには確固たる動機があるんです。一番の動機は自分の作品を使って実験をしたいんです。例えば、アトムスーツを着てチェルノブイリの「ZONE」と呼ばれる、普通、人が入ることの出来ない汚染地域の遊園地に行ったのも、自分が昔、万博跡地で体験した「未来の廃墟」を、もう一度体験することによって「時間旅行」という、未知の領域に自分をはめ込んでみたいという実験的欲求からなんです。そんな普通では出来ないことをすることによって、自分自身が変わる実験をしたいんですよ。ほぼ人体実験に近いような行為をしてるんじゃないかと思います。作家名を「ヤノベケンジ」とカタカナ表記してますが、ある意味、自分とは違う「ヤノベケンジ」という一作家・アーティストを実験しながら、さらに違う領域に連れていくことが出来れば、すごく面白いなと。そういうのが僕の表現の手法だと思います。作品を作って美術館に展示するよりも、自分が変わりたい。そういう行為をずっとしてるんです。だから、人工知能ロボットと密閉された部屋で一週間暮らしたり、一歩間違えば死ぬかもしれないのに、太陽の塔に登って目玉に座ったりしてるんですよ。
▲岡本太郎 作:太陽の塔 
この眼にヤノベさんは座った。作る方も登る方も「爆発」してる!(笑)尊敬します。
  ▲万博会場も今は公園。
21世紀は万博が夢見た「人類の進歩と調和」を実現する世紀になるんだろうか?
J そのチェルノブイリ行きのことですが、「健康を害するんじゃないか」とか「自分の身に危険が及ぶのではないか」とか「地域住民に立ち入りを反対されるのでは」とかいう心配をされたと思うんです。そういう問題に対する事前リサーチは、されたんですか?
Y はい。ある程度はリサーチしてました。
J アトムスーツを着て、入れる所もあるという確証の下、行かれたという事ですね。
Y 事故を起こした原子炉から、30km圏内は全て封鎖されてます。そこに入るには許可が要ります。ただ、その圏内全部が汚染されてる訳じゃなくて高濃度地帯、ホットスポットという場所が幾つかあって、そこには許可があっても入れないんです。だから30km圏内に入った段階でロシアの監視員が、僕の行く所全てに付いて来るんで、あまり危険な場所へは近寄れませんでしたね。
J それにしても、よく立ち入り許可が取れましたね。いくらヤノベさんだと言っても、一民間人やし。
Y 入る方法を模索するのに2年位かかりました。最終的にどういう形で入ったかというと、アメリカ人のフォトジャーナリストとベルリンで知り合って、彼は以前入ったことがあるということで、彼がある程度手続きをして、彼と一緒に入って撮影もしてもらうということで申請してジャーナリズムという形で入ったんです。もっともアトムスーツを着て入るとは言ってませんけど。形としてはジャーナリストということで入りました。
J 現地の住民の方の反応は、賛成・反対色々あったでしょうが、やはり反対の声が多かったんでしょうね。
Y ヒンシュクですよね。
J そうでしょうね。外国の若いヤツが変な格好でやって来て写真を撮っているとなるとねえ。
Y 実際、僕が行った当時は事故を起こした原子炉の横(の原子炉)は動いていて、多くの労働者が働いてたんで、沢山の人と出合ったし、近くの村の老人達は一時退去の命令が出たのにも関わらず、戻ってきて以前と同じように住んでいる状態でした。そんな状況下でしたから、歓迎してくれる老人もいたし、労働者の中には怒り心頭の人もいるし・・・。「自分達を笑い者にしている」という印象を与えたんだと思います。
J 「もう止めとこか」とか思いませんでしたか?
Y もちろん思いましたよ。自分としては「廃墟の中にある遊園地に訪れる」という行為をしに行ったんだけど、つまり「未来の廃墟の再体験」という行為ですよね。それが実際には、そこに住んでいる人や、働いている人に出合うことになったという現実は、別の意味で大きなインパクトがありました。想定外の結果になっても、そこから大きな収穫を得ることがある。という好例ですね。話は戻りますが、90年代に起こったオウムの一連の事件やM事件は僕等の世代にとっては、すごく大きな出来事だったことは確かです。あの事件は、自分達が育った時代が、あまりにも平凡で幸せであった為に、現実を見る必要も感じず、空想の中にぬくぬくと浸っていられたという、僕等世代が引き起こしたんですよね。もしかしたら自分も、そんな一人になっていたんじゃないか?という同族の問題意識の中で「もっと現実を自分の体験として取り込みたい」という意識が芽生えてきたんです。それが「チェルノブイリに行きたい」という気持ちになったとも言えるんです。

サバイバルからリバイバルへ、
「スタンダ」は未来の廃墟から力強く立ち上がる。
J 毎年、個展を開かれてますが、その個展のタイトルと言うかコンセプトは、ヤノベさんの一連の活動の「句読点」と言うか「小見出し」と考えていいのでしょうか?
Y その時々の問題意識がタイトルになったりするんですが、例えば91年にキリンプラザ大阪でやったのが「ヤノベケンジの奇妙な生活」というタイトルです。これはタンキングマシーンを作った後に開いた個展なんですが、「自分の作品は単なる作品ではなく、自分が生活を送る上での必需品である」という考えの下に行ったものです。92年に水戸美術館で開いた個展が「妄想砦のヤノベケンジ」というタイトルです。これは、さっき言ったように自分が「妄想世代の一人である。その妄想をポジティブに捉えてみたい」という挑戦の意味で付けたタイトルです。これはM事件の後に開いたんですが、M事件に対する自分なりの答えを導き出そうという考えがありました。その後、僕がドイツに行っている間に、オウムの地下鉄サリン事件と阪神淡路大震災が起こったんですが、その時、僕が日本に居なかったことが何か、僕の負い目になってるんですよね。「妄想砦のヤノベケンジ」という個展を開いた僕と同じように、妄想的行動をとったオウム真理教の信者が、あのような事件を起こしてしまった。また、テーマである「サバイバル」の中で未来の廃墟を取り上げていたら、あの震災で現実の廃墟が出来てしまった。この大きな2つの事件が自分のいない所で起こった。その後に事件前のような、妄想を肯定的に捉えた作品作りは出来なくなった。それがチェルノブイリに行くことによって、現実を体験して、自分の中に変化が表れ、同世代の人達に何らかのメッセージを送ることが出来るようになったのではないかと思います。だから意図的ではない行動が、結局どこかで繋がってるんですよね。
J 北九州で開かれた、最新の個展では「リバイバル」というテーマ設定をされてますが、大人になると皆一様に肩の力が抜けると言うか、ある種、悟るといった(笑) 境地に向いますよね?
Y 悟る・・・?(笑) 01年前後から「リバイバル」という言葉を使い出したんです。世紀末は「ハルマゲドン思想」が言われましたよね。そんな中で僕は「サバイバル」をテーマにしてやってきました。そして新世紀になって、世間では不況ということもあって相変らずサバイバルなんですが、社会を牽引していく美術、表現者の立場としては、次の何かを模索して行かなくてはならないと考えて「リバイバル」と。サバイバル、リバイバル・・・シャレのような言葉ですが。(笑) そして「スタンダ」という、未来の廃墟から立ち上がる、モニュメントのような意味合いを持つ作品を作りました。これは自分にも子供ができて、子供を見ていると自分自身、人生を一からリセットできるという頭の構造になったことも影響してます。これが、悟るとか大人になるとか、どうかは判りませんが。(笑)
J 現実のどこかに着地して、そこから新たなものが見えて来るという心境は、多くの人が感じることでしょうね。そうやって大人になっていくのかなあという気がします。
Y 「大人になる」というのが、どういう意味かなあっていうことも、まだあるんですよ。(笑) 良い意味も悪い意味もあるでしょ? この言葉には。(笑)
J 僕は、良い意味で言ってますよ。(笑) 成熟したと言うかねえ・・・。(笑)
Y まあ、判りませんよね。(笑) 自分が大人になっていくのが良いかどうか。また成熟していくことが、最終的に良いことかも判りませんしね。自分自身が、いつまでも子供のような新鮮な眼差しを持ち続けていくことは、ある意味大事なことだと思いますしね。
J 以前お話を伺った黒沢監督も、いい意味で「いつまでも子供の心を持っている方だなあ」という印象を持ちましたよ。爽やかな方でした。そういえば、少し前に読んだ雑誌で黒沢監督特集があったんですが、その特集タイトルも「いつまでも成熟しない・・・」っていうようなタイトルでした。
Y 黒沢監督も僕も、言葉で説明するより作品が全てを物語ってると思いますけどね。
J 話は変わりますが、芸術家とは職業なんでしょうか? 黒沢監督とは「映画はヒットさせなくては、ならないモノなのか?」という話をしたんですが。(笑)
Y 「職業」という定義を、どう捉えていいのか判らないんですけど・・・。
J ヤノベさんのアーティストとしてのスタンスは、「自分の気持ちが、どう変化するかの実験」と言われるように、まず「自分のため」の行為ですよね。人々の心を癒す為とか、子供の想像力を伸ばす為とかは言ってない・・・。(笑)
Y 基本的にはそうです。クライアントも居ないですし。(笑) だから誰に迎合することもなく、自分の好きなことができる訳ですよね。だからと言って自己完結だとか、マスターベーション的な作品を残すつもりは全くないですよ。自分のやっていることや存在自体が、常に社会的に意味のある状態でありたいと思ってます。でも美術分野だけじゃなく、映画・マンガ・・・それ以外の表現分野でも、すごい尊敬できる方は沢山いらっしゃいますよね。商業ベースの中でも自分の意志を、ちゃんと反映させて社会の中に投げ込んでいける方は確かにいらっしゃいます。だから美術というカテゴリーに拘らず、常に色んな分野にコネクトできるような状況を、持っていたいですね。例えば「ISSEY MIYAKE」の店舗でのコラボレーション。一生さんの大きな理解力があったからこそ、僕自身が自分勝手にコトを進行できて、結果として良いものが出来たと思うんですね。そんな環境でモノを創れるなら、美術という分野だけでなく、他の領域に出て行くことが可能だと最近は思ってます。映画とか他分野とのコラボレーションですね。
J 僕は芸術家と呼ばれる方と話したのは今日が初めてなんです。長年、ビジネスという「損得」の世界に身を置いて、自分を商品化することに疲れを感じていて。そんな中での疑問として「芸術家という職業は何ぞや?」というのがありまして。(笑) 正直、「エ〜よなあ」っていう気がして。「隣の芝生は青い」と言いますか・・・。(笑) で、今日 直接ヤノベさんの口から色んな話を伺って、「やっぱり、エ〜なあ」と。(笑)
Y 僕も自分の好きなことだけしてるんじゃないですよ。(笑) ちゃんと社会での落としどころとか、現実の状況とか、そういうもの全てを踏まえた上でやってる訳で。立派な美術館で個展が開けるという事は社会の中に落とし込めていけてる、という事だと思ってますよ。(笑) でも、結局、自分が今やっていることに、どれだけ満足しているかだと思います。例えば、j-in さんが今の仕事に対して自信を持っていれば、それで良いんであって、敬意を払うべきことですし。どういう職業だから偉いとかじゃなくて、自分自身の問題だと思います。僕は自分のことを偉いともなんとも思ってないし、自分の好きなことが出来て幸せだなと思ってるだけです。今後どうなるかは判りませんけど。(笑)

(インタビュー終了)


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